
至学館大学の北方へ車を10分~15分ほど走らせると、名古屋市緑区、豊明市に各々桶狭間の戦いが繰り広げられたといわれる一帯が広がっています。 桶狭間の戦いとは1560年に尾張の小大名であった織田信長が京へ上る大大名今川義元をわずかな兵で倒し、天下統一への足掛かりを作った戦いです。 約二万五千の軍を率いて尾張に攻め入った義元は、沓掛城(豊明市)から大高城(緑区)に向かう途中、桶狭間で休憩し昼食をとっていました。 ところが突然、激しい雨が降り出しました。 そのすきをうまくついた信長が約三千の軍で奇襲をかけたのです。ろうばいする義元軍はあえなく討ちとられてしまったのです。
ここで歴史の謎解き!「信長軍約三千人の少数軍が義元軍約二万五千人の大軍にどうして勝つことができたのか」ということです。
以前より信長軍の桶狭間までの進路については『迂回奇襲説』が通説として語られていました。 「織田信長は善照寺砦から間道を通って田楽狭間の背後の太子ヶ根山に回り、谷底に布陣していた今川義元に対して奇襲を行った」と考えられてきました。 この迂回奇襲説を信長の天才的作戦として世間に広めたのは『日本戦史 桶狭間役』(1899年)に全面的に依拠して桶狭間合戦を活き活きと叙述した徳富蘇峰の『近世日本国民史』でした。
これに対し1980年代、在野の歴史研究者である藤本正行氏は、『信長公記』を丁寧に読み解き、同書には信長軍が大きく迂回して今川軍の背後をとったという記述がないことを発見しました。 すなわち、『信長公記』には、善照寺砦の信長は、家臣たちの反対を「ふり切って中島へ御移り候」と明記されています。 これに従えば、信長は善照寺砦からすぐ南の中島砦に移っているのです。 善照寺砦から中島砦を経由して義元が布陣する「桶狭間山」に至る直線的な最短ルート(約三キロメートル)を全速力で急行したという、いわゆる『正面攻撃説』です。 以後、様々な論争、説があったようですが、この『正面攻撃説』が今では有力視され、近年のNHKで取り上げる「桶狭間の戦い」を解説した歴史番組や最近の大河ドラマ等は、この説を採用しています。
ここで私の過去の社会科実践・歴史学習に話を移す(全授業記録は写真の本に掲載)と、子どもたちは「兵の差がこんなにあるのに、正面から攻撃したら、なおさら信長に勝ち目はなかったのではないか」「どうして勝てたのだろう」という素朴な疑問が湧きあがりました。 桶狭間でのフィールドワークや資料等を調べていくうちに「鷹狩りにきていてその地をよく把握していた信長は悪天候での戦いは得意だった。 天気がたまたま味方した。・・・運がよかった。」「義元は酒を飲んで油断していた。」「やはり、奇襲攻撃をしないと勝てない」等、この歴史の謎に対して、子どもたちが様々な説を各種資料を根拠にして立てるようになっていった。 「運がよかった説」「酒をのませた説」「奇襲説」でどの説が一番有力かを話し合いました。 激論が展開されました。このあと、さらに全国に歩み出した信長の人物像を意欲的に安土城や岐阜城等へ出かけて調べていく歴史トラベラーがどんどん出てきました。
このように、知識注入の画一的な社会科授業ではなく、歴史(社会)の謎解き、子どもたちの切実な問いを生かしながら社会科を楽しく学ぶ授業方法、教材研究法、初期社会科から大切にされてきた問題解決学習の理論を本学で学んでいきます。 子どもが一生憶えている社会科授業を一緒にめざしませんか。 至学館大学の近くにこんな歴史があり、子どもにとって有益な地域の歴史的教材となる可能性が秘められているのです。
社会科教育学
健康科学部 こども健康・教育学科
教授 出井 伸宏
